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Fig.1 Location of the Amanohashidate Coast

はこの切戸を境に大天橋と呼ばれる北の長い部分(約2.8?)と小天橋と呼ばれる南の短い部分(約0.8?)に分けられる。
天橋立海岸の成因は、世屋川をはじめとする丹後半島東岸の河川から流出した砂礫が一方向性の卓越した波浪とそれによって生じる沿岸流によって南下し、沿岸流方向の水深の増大にともなう漂砂輸送能力の減少により、時間的に前進する堆積過程のもとで形成されたと推定される。大天橋と小天橋に分かれる現在の姿の原形は、江戸中期に形成されたといわれ、その後、明治に入り内海への航路の開設、大正後期に架橋が行われ、今日の姿が定着した。
2-2.天橋立海岸の侵食原因とその対策
天橋立海岸の侵食が問題視されるようになったのは、1951年頃である。天橋立海岸の侵食の原因には、2つの因子が挙げられる。一つは、1935年頃から始まった流入河川に対する治山治水工事による流出土砂の減少である。もう一つは、1963年から1973年にかけて築造された目置および江尻両船溜り施設による沿岸漂砂の遮断である。
天橋立海岸への漂砂供給源となる河川は、図-1に示されるように、宮津湾西岸の漂砂上手側に位置する畑川(流域面積6.22?)、世屋川(16.25?)、波見川(10.44?)である。これらの流域の地質は、第三紀の砂礫層を中心としており、軟らかく侵食されやすい地層である。その対策としてこれまでに堰堤等の構造物を主体とした治山治水工事が実施されている。その結果、海域へ流出されるべき土砂は砂防垣堤等によって捕捉され、流出土砂が減少したものと考えられる。
一方、流入河川の下手には日置船溜りと江尻船溜りの2つの漁港施設が整備された。両船溜りは沿岸漂砂が一方向に卓越している海岸に築造されているため、漂砂は当該施設の防波堤上手側と防波堤先端付近およびそめ背後に捕捉され、下手への漂砂の供給を遮断するという海岸侵食の原因となっている。
京都府は侵食対策として、天橋立とその上手海岸において1951年から1965年にかけて長さ10〜15mの防砂突堤を約100基設置した。しかしながら、小突堤群では天橋立海岸の侵食を止めるに至らなかった。そこで、京都府は新たな保全対策を策定するための調査を1969年に行い、既往請査研究成果(菱田ら(1951〜1956年)、石原・岩垣ら(1956年)と併せて天橋立海岸の漂砂機橋を明らかにした。
その結果を基に、1971年から天橋立海岸に長さ30m、間隔170〜200mの大突堤を60基設置した。この対策により、従来の侵食傾向はかなりくい止められた。しかしながら、沿岸漂砂の供給が絶たれたことに対する対策が請じられていなかったこと、漂砂の連続性が未成立であったこと等により、天橋立海岸の汀線は前進することなく、「天の串刺し」という世評をかうこととなった。
(図-2上段参照)

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Fig.2 Change of the Amanohashidate Coast (Before sand bypassing and after sand bypassing)

 

 

 

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